魏晋南北朝時代
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魏晋南北朝時代の社会
土地・税制・官吏登用などの新制度が発達
≪頻出≫下の表は丸暗記せよ。
A:蜀B:呉C:五胡十六国
最も有効なものは隋・唐に継承された!D:北魏E:北周F:東晋G:宋H:斉I:梁J:陳
1)全部で10種類!(魏晋南北朝期ではないものも2つ含むが)いわば「制度のデパート」ア)大土地所有抑制・農民把握(=税収確保)を目的とする制度
①【1:】の屯田制とんでんせい曹操の創設した「民屯」は税収(食糧)確保が目的。②【2:】の占田・課田法西晋の武帝が実施。均田制に影響を与えたとされる。③【3:】の戸調式こちょうしき西晋の武帝が制定。占田・課田法とともに実施したとされる。④南朝の【4:】の土断法。東晋から始まり南朝の各王朝で実施されたとされる。⑤【5:】の均田制孝文帝が創設。北朝に受け継がれ、隋で改訂され唐に受け継がれた。⑥【6:】の租庸調制《これは魏晋南北朝期ではないが》隋の文帝が創設、唐に受け継がれた。イ)治安維持・兵士確保を目的とする制度
⑦【7:】の屯田制《これは魏晋南北朝期ではないが》秦漢以来の「軍屯」は辺境警備の確保が目的。⑧【8:】の三長制さんちょうせい孝文帝が創設。⑨【9:】の府兵制ふへいせい北周を経て隋・唐に受け継がれた。ウ)優秀な人材を官吏に登用することを目的とする制度
⑩【10:】の九品中正法(九品官人法)魏の文帝(曹丕)が創設。西晋・東晋と南朝に継受。⑪【11:】の科挙《これは魏晋南北朝期ではないが》隋の文帝(楊堅)が創設、唐に受け継がれた。
隋代の呼称は「選挙」。「科挙」と呼ぶのはは唐以降。入試では隋代から「科挙」と書いてもよい。(保障はしませんが)
2)なぜ、このように多数の制度が生み出されたのか?
ア)戦乱と飢饉が続き、多くの農民が耕地を放棄して流民となり、豪族はこれらの農民と耕地を支配して
大土地経営を始めた。どの王朝も、大土地所有を制限し、農民を直接把握して税収を確保する必要に迫られ、様々な制度を編み出した。
イ)華北では、鮮卑をはじめとする遊牧民が漢人の知識層を部下として、遊牧民、漢人農民など多様な人
々を統治する必要に迫られ、民族や風土を越えて適用しうる制度が模索された。
3)各制度はおよそ次のようなものである。世界史で受験する諸君は熟読せよ。
①~⑪の数字は前掲(1)の(ア)(イ)(ウ)の①~⑪に対応している。
①屯田制:196年、魏の曹操は、韓浩・棗祗らの提言に従って、辺境地帯でなく内地において、荒廃した田畑を一般の人民にあてがって耕作させ収穫の5~6割を徴収する民屯を行った。当初は許都(許昌)の周辺で行われ、のち各地に広まった。晋以降は民屯は廃止、軍屯のみ残る。国家が土地・人民を直接に管理・支配しようとする試みは、のちの均田制にも通じるものであった。(後掲⑦参照)
②占田・課田法:西晋の武帝が実施。占田とは土地所有の最高限度を定め、田租・徭役・兵役などを課した制度とされる。課田は農民に官有地を強制的に割り当てて耕作させ税収の確保をはかる制度。いずれも詳細は不明だが、北魏の均田制に影響を与えたことは確かだとされている。
③戸調式:西晋の武帝が制定、占田・課田法とともに実施されたとされる税制。1戸ごとに生産物(絹、
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綿)を徴収した。
④土断法:東晋の武将で宋の建国者劉裕(宋の武帝)が大規模に実施したことで知られる。東晋から南朝の各王朝で採られた戸籍登録法。華北からの漢族移住者は本籍地奪還を期して臨時の特別な戸籍に登録され、力役免除など特別な待遇を受けていた。これを廃し現住地戸籍に登録して国家財政を充実させた。計9回実施された。
⑤均田制:485年、北魏の孝文帝が実施した。豪族の大土地所有を抑制し、農民には年齢・性別などに応じて給田と回収を行った。女性、奴婢、耕牛にも給田したので豪族に有利だった。隋の楊堅は592年、全国実施したが、耕牛への給田は廃止。煬帝の時、女性と奴婢への給田も廃止された。⑥租庸調制《魏晋南北朝期ではないが》:均田制に対応する税制。穀物を収める租、1年に20日の労役を提供する庸、絹・綿・麻などを収める調。⑦屯田制:「軍屯」は、辺境に兵士を入植させ食料自給で警備にあたらせるもの。前漢の武帝は、辺境地帯を防衛する兵士に農耕を行わせたとされる。後世にも例を見る。(前掲①参照)
⑧三長制:北魏の孝文帝が制定。5家を隣、5隣を里、5里を党とし、隣長・里長・党長(三長)を置き、長は免役。均田制実施のための戸籍調査、税の徴収を行わせ財政確保と治安維持を図った。
⑨府兵制:西魏・北周・隋・唐の兵制。給田の対象となる丁男の3人に1人を選び、3年に1回農閑期に訓練を実施。兵役期間中は租庸調免除。武器・衣服は自弁。唐では④⑤⑧は一体となって運用された。749年玄宗の代に廃止、募兵制に替わった。
⑩魏の文帝が始めた九品中正法は、晋・南北朝(特に東晋と南朝)に引き継がれた。から任命された中正官が地方の人材を郷里の評判によって9等級に評定(郷品)して推薦し、はそれに相応する官職に任命した。しかし、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」の諺にもあるとおり、地方豪族の子弟が上級官職を独占し、特に南朝では門閥貴族の形成につながった。⑪科挙《魏晋南北朝期ではないが》:隋の文帝(楊堅)が始め、清末まで行われた非常に厳しい学科試験による官吏登用制度。「試験範囲」は儒学の基本テキストのほとんどすべて。詩作や書の才も要求された。秀才・明経・進士などのコースがあったが北宋期には進士一つに絞られた。文学作品でも、中島敦の『山月記』の主人公李徴は進士合格者、井上靖『敦煌』の主人公趙行徳は「殿試」まで行ったが失敗したという設定である。時代により異なるが倍率約3000倍。合格平均年齢36歳。合格者は必ず官僚に採用され、合格者1人を出せば一族は勢家となれた。実際には連続5、6代続いて合格者を出せば長い方で、門閥化するほど連続して合格者を出せる家はなかったようである。後継者たる若者を受験勉強に専念させ進士合格者を出すような豊かな階層を宋代以降は「士大夫」と呼ぶ。彼らは詩文の才に富み書にも堪能で、儒学に通じた教養人だが、実学や世間の常識を全く知らないことをむしろ自慢していた。こうした保守的な士大夫層がヨーロッパ列強の侵略に直面した清朝の改革の足を引っ張り、大変なことになる。4)各制度の創始と継受入試ではこういう形式で問われることが多い。以下は出題パターン。
課税対象たる農民の確保は国家にとって死活問題。魏の建国者曹丕の父、曹操は【12:】を実施して食糧を確保。西晋の武帝が行った【13:】は、485年、北魏の【14:】が創始した均田制に影響を与えた。均田制は北朝の全王朝に受け継がれ、隋の初代【15:】(楊堅)は592年、均田制を全国実施。唐もこれを手直しして受け継いだ。土地の供与を受けた農民から徴兵する府兵制は【16:】に始まり・北周・隋・唐に受け継がれた兵制である。
有能な官吏の確保も重要な課題だった。九品中正法は、220年、魏(三国の魏)の【17:】が創始した官吏登用制度。晋(西晋)に受け継がれ、その滅亡で東晋に受け継がれ、【18:】の最後まで受け継がれたが、隋唐には受け継がれず廃れた。この登用法は豪族に有利で門閥貴族を生じた。科挙は魏晋南北朝期ではなく【19:】の【20:】(楊堅)が創始、唐に受け継がれた非常に厳しい学科試験による官吏登用制度。清末の1905年まで行われた。土地の供与を受けた農民に税や労役を課する【21:】は、魏晋南北朝期ではなく、これも隋の文帝が創始した。修正を加えて【22:】に受け継がれる。隋の文帝は、【23:】と租庸調制を創始し、【24:】と府兵制を受け継いだ。
江南の開発が進んだ!
遊牧民族の侵入で漢族が多数【25:
】に移住したため、農業開発が進み、商業も発達した。
門閥貴族を生んだ!
地方の優秀な人材を登用するために始まった九品中正法(九品官人法)は地方豪族の子弟が上級官職を独占し、特に南朝では【26:】の形成につながった。六朝文化については別項《参考》「三国志演義」:元代に原型が成立。羅貫中が大成し、刊行は明代。三国時代の英雄豪傑の活躍を題材とする中国の代表的歴史小説。小国であった蜀の君主劉備(当時47才)に三顧の礼をもって迎えられた軍師、諸葛亮(孔明、当時27才)は、その才知で主君とその子劉禅を支え続けた。今なお忠君の英雄として中国民衆の心の中に生き続けている。なお、「葛」の字は正確に覚えよう。/「水滸伝」:元末明初に完成。北宋末におこった「宋江の乱」を題材としたフィクションであるが、「梁山泊の108人の豪傑」は義賊として民衆にも親しまれ、日本の「南総里見八犬伝」にも影響を与えている。入試的には詳しく覚える必要はないが、上の「三国志演義」と「水滸伝」を区別できることは必要であろう。「梁山泊」とあったら「水滸伝」である。「三国志演義」は様々な形態で今なお出版され続けアニメ版まである。
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