おしょう
和
さろうかづた
か
あんどうちょうじ
ともかたひざ
膝
尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると行灯がぼんやり点っている。片
ざぶとん
屋がぱっと明かるくなった。
を座蒲団の上に突いて、灯心を掻き立てたとき、花のような丁子がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部
ふすまえぶそん
襖
おちこち
かいちゅうもんじゅじくかか
中
文
さた
てんじょう
かさかたぶ
傾
け
の画は蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近とかいて、寒むそうな漁夫が笠を
とこ
にお
あおむとたん
て土手の上を通る。床には海臭っている。広い寺だから森
殊の軸が懸っている。焚き残した線香が暗い方でいまだに
しんかんひとけまるあんどう
行
灯の丸い影
閑として、人気がない。黒い天井に差す丸
が、仰向く途端に生きてるように見えた。
たてひざ
立
ざぶとんめく
なお
すわ
おしょう
尚が云った。そういつまでも悟れぬところをも
膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。
あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。
さむらい
お前は
侍
である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和
くずむこう
ければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと
向
くや
け
って見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜し
をむいた。怪しからん。
す
にゅうしつ
入
ときひきかえ
替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうし
隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また
室する。そうして和尚の首と悟りと引
ても悟らなければならない。自分は侍である。
じじんはずか
辱
きれい
しめられて、生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。
もし悟れなければ自刃する。侍が
ふとん
つか
は
はいしゅざや
すご
ひず
こう考えた時、自分の手はまた思わず布団の下へ這入った。そうして朱鞘の短刀を引き摺り出した。ぐ
っと束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。凄いものが手元から、すうす
きっさき
うと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切
さっきことが
先へ集まって、殺気を一点に籠めている。自分
ちぢからだ
くすんごぶ
はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。
くちびるふる
唇
が顫えた。
ぜんが
くそぼうず
だ。糞坊主めとはがみをした。
じょうしゅう
趙
州
む
曰く無と。無とは何
短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽を組んだ。――
かし
奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。
かけもの
懸
たたみ
畳
やかんあたま
が見える。和尚の薬
缶
わにぐち
口を
物が見える。行灯が見える。頭がありありと見える。鰐
ああざわらけ
におい
香
がした。何だ線香のくせに。
開いて嘲笑った声まで聞える。怪しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってや
る。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の
げんこつ
自分はいきなり拳
なぐか
骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。
りょうわき
両
ひざつぎめ
む
腋から汗が出る。背中が棒のようになった。膝の接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうある
ものかと思った。けれども痛い。苦しい。無はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。
くやくだ
ちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
おもい
思
おおいわ
に身を巨
巌の上にぶつけて、骨も肉もめ
無念になる。非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。ひと
た
からだ
って、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
いあせ
ふさ
それでも我慢してじっと坐っていた。堪えがたいほど切ないものを胸に盛れて忍んでいた。その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞が
あんどうぶそんえ
そのうちに頭が変になった。行
ちがいだな
棚も有って無いような、無くって有
灯も蕪村の画も、畳も、違
む
こつぜん
忽
げんぜんいいかげん
るように見えた。と云って無はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。ところへ
然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。
第三夜
こんな夢を見た。
おぶ
あおぼうず
つぶ
六つになる子供を負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に
おとな
あおたたんぼ
「田圃へかかったね」と背中で云った。
たいとう
等だ。
相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対
みちさぎやみ
左右は青田である。路は細い。鷺の影が時々闇に差す。
うし
「どうして解る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
さぎ
「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。 すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
こわしょ
とたん
うっち
自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを背負っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端に、背中で、 「ふふん」と云う声がした。 「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった。ただ
おとっ
「御父さん、重いかい」と聞いた。 「重かあない」と答えると 「今に重くなるよ」と云った。
めじるし
自分は黙って森を目
標にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。
ふたまた
しばらくすると二
また
股になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。
ひくぼ
あきら
い字が
明
ほったはらやみ
なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り日ケ窪、右堀田原とある。闇だのに赤
いもり
かに見えた。赤い字は井守の腹のような色であった。
な
「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛げかけ
ちゅうちょ
ていた。自分はちょっと躊
躇した。
めくら
「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。
おぶ
「だから負ってやるからいいじゃないか」
もら
「負ぶって貰ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
いや
何だか厭になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
ひとりごと
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独
言のように云っている。
きわ
「何が」と際どい声を出して聞いた。
あざ
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。
はっきり
けれども判
然とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついて
も
いて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。 「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
はい
ある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
いっけん
間ばかり先に
雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へ這入っていた。一
おとっ
「御父さん、その杉の根の処だったね」 「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
たつどし
「文化五年辰
年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺
こつぜん
したと云う自覚が、忽
ひとごろし
殺であったんだなと始めて気がついた
然として頭の中に起った。おれは人
とたん
途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
第四夜
す
かたすみ
っている。片
まわりじい
しょうぎ
几が並べてある。台は黒光りに光
広い土間の真中に涼み台のようなものを据えて、その周囲に小さい床
ぜんさかな
肴
は煮しめらしい。
隅には四角な膳を前に置いて爺さんが一人で酒を飲んでいる。
しわ
爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。その上顔中つやつやして皺と云うほどのものはどこにも見当ら
ひげはとしより
寄と云う事だけはわかる。自分は子供ながら、この爺さ
ない。ただ白い髯をありたけ生やしているから年んの年はいくつなんだろうと思った。ところへ裏の
筧
かけひ
ふ
手を拭きながら、
ておけくかみまえだれ
垂で
から手桶に水を汲んで来た神さんが、前
ほおばにしめの
はさ
「御爺さんはいくつかね」と聞いた。爺さんは頬張った煮〆を呑み込んで、
「いくつか忘れたよ」と澄ましていた。神さんは拭いた手を、細い帯の間に挟んで横から爺さんの顔を見て立っ
ちゃわん
ていた。爺さんは茶
碗のような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹
き出した。すると神さんが、
うち
「御爺さんの家はどこかね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切って、
へそつっこ
「臍の奥だよ」と云った。神さんは手を細い帯の間に突込んだまま、
「どこへ行くかね」とまた聞いた。すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、 「あっちへ行くよ」と云った。
まっすぐ
「真へ真
しょうじかわら
直かい」と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障直に行った。
子を通り越して柳の下を抜けて、河原の方
まっすぐ
あと
わき
あさぎももひきは
箱を腋の下へ釣るしている。浅黄の股何だか皮で作った足袋のように見えた。
ひょうたん
箪がぶら下がっている。肩から四角な
爺さんが表へ出た。自分も後から出た。爺さんの腰に小さい瓢
そでなたび
引を穿いて、浅黄の袖無しを着ている。足袋だけが黄色い。
てぬぐい
爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から浅黄の手
拭を出し
かんじんより
た。それを肝
心
よじびたしんちゅうこし
くりかえ
返して云った。
まわり
あめやふえ
綯のように細長く綯った。そうして地面の真中に置いた。それから手拭の周囲に、
鍮で製らえた飴屋の笛を出した。
かへび
大きな丸い輪を描いた。しまいに肩にかけた箱の中から真
「今にその手拭が蛇になるから、見ておろう。見ておろう」と繰 子供は一生懸命に手拭を見ていた。自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は手拭ばかり見ていた。けれども手拭はいっこう動かなかった。
わらじつまだ
爺さんは笛をぴいぴい吹いた。そうして輪の上を何遍も廻った。草鞋を爪立てるように、抜足をするよう
こわ
に、手拭に遠慮をするように、廻った。怖そうにも見えた。面白そうにもあった。
つま
やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと撮んで、
ほうこ
ぽっと放り込んだ。
へび
「こうしておくと、箱の中で蛇になる。今に見せてやる。今に見せてやる」と云いながら、爺さんが真直に歩き
つ
出した。柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでも追いて行った。爺さんは時々「今になる」と云ったり、「蛇になる」と云ったりして歩いて行く。しまいには、 「今になる、蛇になる、 きっとなる、笛が鳴る、」
うた
と唄いながら、とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思ってい
はい
つか
で水に浸って見えなくなる。それでも爺さんは 「深くなる、夜になる、 真直になる」
ひざ
ると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入り出した。始めは膝くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方ま
ひげ
むこうぎし
自分は爺さんが向
ずきん
あし
と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうして髯も顔も頭も頭巾もまるで見えなくなってしまった。
岸へ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、蘆の鳴る所に立って、たった一人
いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。
第五夜
こんな夢を見た。
かみよす
なって、敵の大将の前に引き据えられた。
いくさ
軍
まけいけどり
擒に
何でもよほど古い事で、神代に近い昔と思われるが、自分がをして運悪く敗北たために、生
は
つるぎ
な
剣
しうるし
みが
も塗ってなければ磨
その頃の人はみんな背が高かった。そうして、みんな長い髯を生やしていた。革の帯を締めて、それへ棒のよう
ふじづる
を釣るしていた。弓は藤
蔓の太いのをそのまま用いたように見えた。漆
きわそぼく
さかがめ
甕を伏せたようなものの上に腰をか
きもかけてない。極めて素樸なものであった。
敵の大将は、弓の真中を右の手で握って、その弓を草の上へ突いて、酒
まゆ
かった。
つながかみそり
剃と云うものは無論な
けていた。その顔を見ると、鼻の上で、左右の眉が太く接続っている。その頃髪
とりこ
自分は
虜
ていた。この時代の藁沓は深いものであった。立つと膝
あぐら
ひざがしら
はし
わらぐつは
沓を穿い
だから、腰をかける訳に行かない。草の上に胡坐をかいていた。足には大きな藁
わらあみのこ
残
頭まで来た。その端の所は藁を少し編
して、房のように下げて、歩くとばらばら動くようにして、飾りとしていた。
かがりび
大将は篝
とりこ
くっぷく
服しないと云う事になる。自
火で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。これはその頃の習慣で、捕虜にはだれでも一
応はこう聞いたものである。生きると答えると降参した意味で、死ぬと云うと屈
ひとこと
分は一
な
なび
かがりび
かえで
楓
火が横から吹きつけた。自分は右の手を
けん
のように開いて、
言死ぬと答えた。大将は草の上に突いていた弓を向うへ抛げて、腰に釣るした棒のような剣をする
りと抜きかけた。それへ風に靡いた篝
たなごころ
掌収めた。
さや
を大将の方へ向けて、眼の上へ差し上げた。待てと云う相図である。大将は太い剣をかちゃりと鞘に
あとり
その頃でも恋はあった。自分は死ぬ前に一目思う女に逢いたいと云った。大将は夜が開けて鶏が鳴くまでなら待つと云った。鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わずに殺されてしまう。
わらぐつ
大将は腰をかけたまま、篝火を眺めている。自分は大きな藁
沓を組み合わしたまま、草の上で女を待ってい
ふ
る。夜はだんだん更ける。
くずうろたほのお
焔
まゆ
が大将になだれかかる。真黒な眉の下
時々篝火が崩れる音がする。崩れるたびに狼狽えたように
なこ
で、大将の眼がぴかぴかと光っている。すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ抛げ込んで行く。しばら
くらやみはじかえ
くすると、火がぱちぱちと鳴る。暗
闇を弾き返すような勇ましい音であった。
なら
くら
あぶみ
鐙
び乗った。鞍もない
つな
はだかうま
もない裸
たてがみ
鬣
馬であった。長く白い足で、太
な
を三度撫でて高い背にひらりと飛
この時女は、裏の楢の木に繋いである、白い馬を引き出した。
ふとばらけ
めが
け
か
腹を蹴ると、馬はいっさんに駆
つた
け出した。誰かが篝りを継ぎ足したので、遠くの空が薄明るく見える。馬はこの明るいものを目懸けて闇の中を飛んで来る。鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴って
ひづめ
いる。馬はもまだ
篝
蹄
やみひ
の音が宙で鳴るほど早く飛んで来る。女の髪は吹流しのように闇の中に尾を曳いた。それで
かがり
のある所まで来られない。
まっくら
すると真
はた
ひづめ
蹄
そらざま
様に、両手に握っ
闇な道の傍で、たちまちこけこっこうという鶏の声がした。女は身を空
たづな
こけこっこうと
ひかにわとり
鶏
がまた一
はっしきざ
た手綱をうんと控えた。馬は前足のを堅い岩の上に発矢と刻み込んだ。
ひとこえ
声鳴いた。
しふち
た。岩の下は深い淵であった。
ゆるもろひざまとも
女はあっと云って、緊めた手綱を一度に緩めた。馬は諸膝を折る。乗った人と共に真向へ前へのめっ
あと
かたき
に刻みつけられている間、天探女は自分の
第六夜
敵
まね
である。
あまのじゃく
探
あと
蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。鶏の鳴く真似をしたものは天女である。この蹄の痕の岩
うんけいごこくじ
運
におうげばひょう
慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先に
もう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
なな
しゅぬり
ている。松の緑と朱
いらか
甍
の
を隠して、遠い青空まで伸び
山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の
うつ
塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を
めざわり
眼
はすつきだ
障にならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく
古風である。鎌倉時代とも思われる。
うち
して退屈だから立っているに相違ない。 「大きなもんだなあ」と云っている。
つじまち
待を
ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中でも車夫が一番多い。辻
こしら
「人間を
拵
えるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
ほ
ばかりかと思ってた」と云った男がある。
わっし
私
ゃまた仁王はみんな古いの
そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫るのかね。へえそうかね。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何で
やまとだけのみこと
も日
本
武
はしょ
尊よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折って、帽子を
かぶ
被らずにいた。よほど無教育な男と見える。
とんじゃく
運慶は見物人の評判には委細頓
のみつち
着なく鑿と槌を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所
あたり
に乗って、仁王の顔の
辺
ほぬ
をしきりに彫り抜いて行く。
えぼしすおうそでせなかくく
運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
あおむ
しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
わ
ほ
云って賞め出した。
あっぱ
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と
自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
だいじざい
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と云った。
まゆいっすん
運慶は今太い眉を一
たて
けず
きくずとう
はうぴら
寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち
おろひきざ
下した。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念
さしはさ
を
挾
んでおらんように見えた。
むぞうさ
ひとりごと
独
まみえ
眉
や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような
言のように言った。するとさっきの若い男が、
うまのみつち
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。
ほ
のみかなづち
道具箱から鑿と金
うち
あらし
やつほ
かし
まき
槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風で倒れた樫を、薪にす
それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。
こびきひ
るつもりで、木挽に挽かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。
自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも
かたぱし
運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫っ
かくきょう
のだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
第七夜
何でも大きな船に乗っている。
うま
て見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないも
たえまけぶり
煙
なみすさま
凄
じい音である。け
この船が毎日毎夜すこしの絶間なく黒いを吐いて浪を切って進んで行く。
やけひばし
れどもどこへ行くんだか分らない。ただ波の底から焼火箸のような太陽が出る。それが高い帆柱の真上まで来
かか
てしばらく挂っているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。そうして、しまい
やけひばしすおう
い。
あお
すさま
凄
には焼火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。そのたんびに蒼い波が遠くの向うで、
わあとおっ
じい音を立ててその跡を追かけて行く。けれども決して追つかな
蘇枋の色に沸き返る。すると船は
つら
ある時自分は、船の男を捕まえて聞いて見た。 「この船は西へ行くんですか」
けげん
船の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、 「なぜ」と問い返した。
「落ちて行く日を追かけるようだから」
船の男はからからと笑った。そうして向うの方へ行ってしまった。
はてはや
へさき
舳
流せ流せ」と囃している。
ほんまひがし
東
おさと
出る日の、御里は西か。それも本真か。身は波の上。。
「西へ行く日の、果は東か。それは本真か。
ほづなたぐ
へ行って見たら、水夫が大勢寄って、太い帆綱を手繰っていた。
おか
自分は大変心細くなった。いつ陸へ上がれる事か分らない。そうしてどこへ行くのだか知れない。ただ黒い
けぶり
煙
さいげん
を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。その波はすこぶる広いものであった。際
あお
限もなく蒼
むらさき
く見える。時には
紫
まわりあわ
にもなった。ただ船の動く周囲だけはいつでも真白に泡を吹いていた。自分は大
変心細かった。こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。
のりあい
乗
合はたくさんいた。たいていは異人のようであった。しかしいろいろな顔をしていた。空が曇って船が揺
てすりよ
れた時、一人の女が
欄
ハンケチ
巾の色が白く見えた。しかし
に倚りかかって、しきりに泣いていた。眼を拭く手
からださらさ
身体には更紗のような洋服を着ていた。この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がつい
た。
かんぱん
ある晩甲
板の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。自分
はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学などを知る必要がない。黙っていた。するとその異人が
きんぎゅうきゅういただき
金
牛
宮
の
頂
しちせい
にある七
星の話をして聞かせた。そうして星も海もみんな神の作ったものだ
と云った。最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙っていた。
はいはでいしょう
うた
ピアノひそば
或時サローンに這入ったら派手な衣裳を着た若い女が向うむきになって、洋琴を弾いていた。その傍
に背の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外の事に
とんじゃく
はまるで頓
着していない様子であった。船に乗っている事さえ忘れているようであった。
自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人のいない時分、思い
かんぱん
切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲
せつな
いや
板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命
が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。
つか
色は黒かった。
ちぢ
しかし捕まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮めても近づいて来る。水の
けぶり
そのうち船は例の通り黒い
煙
を吐いて、通り過ぎてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない船でも、や
っぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖
いだ
とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
第八夜
また
床屋の敷居を跨いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
あ
かんじょう
勘
定したら六つあった。
かか
真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開いて、残る二方に鏡が懸っている。鏡の数を
おしりうしろ
子である。鏡には自分の顔が立派に映った。顔の
後
ごこち
ちょうばごうしはす
自分はその一つの前へ来て腰をおろした。すると御尻がぶくりと云った。よほど坐り心地が好くできた椅
には窓が見えた。それから帳場格子が斜に見え来の人の腰から上がよく見えた。
おうらい
た。格子の中には人がいなかった。窓の外を通る往
かぶこし
庄太郎が女を連れて通る。庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被っている。女もいつの間に拵らえたものやら。ちょっと解らない。双方とも得意のようであった。よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
とうふやらっぱほっはちさふく
豆腐屋が喇叭を吹いて通った。喇叭を口へあてがっているんで、頬ぺたが蜂に螫されたように膨れ
しょうがい
ていた。膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。生
涯蜂に螫されているように思う。
おつくりゆるしま
芸者が出た。まだ御化粧をしていない。島田の根が緩んで、何だか頭に締りがない。顔も寝ぼけている。
いろつや
色
出て来ない。
おじぎ
沢が気の毒なほど悪い。それで御辞儀をして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ
うし
ひげひねこはくいろくし
たた
琥珀色の櫛で軽く自分の頭を叩いた。
はさみくし
鋏
と櫛を持って自分の頭を眺め出した。自分
すると白い着物を着た大きな男が、自分の後ろへ来て、
な
は薄い髭を捩って、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。白い男は、何にも云わずに、手に持った
「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」と自分は白い男に聞いた。白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。
鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼をっていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。すると白い男が、こう云った。
だんな
「旦那は表の金魚売を御覧なすったか」
あぶねえ
自分は見ないと云った。白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。すると突然大きな声で危
険と云
そでかじぼう
棒が見えた。と
ったものがある。はっと眼を開けると、白い男の袖の下に自転車の輪が見えた。人力の梶
思うと、白い男が両手で自分の頭を押えてうんと横へ向けた。自転車と人力車はまるで見えなくなった。鋏の音がちゃきちゃきする。
か
やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈り始めた。毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開
あわもち
けた。粟
きねうすひょうし
子
餅や、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。小さい杵をわざと臼へあてて、拍
つ
を取って餅を搗いている。粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。ただ餅を搗く音だけする。
かどのぞ
自分はあるたけの視力で鏡の角を覗き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の
まみえ
はんえり
半い
おおがら
膝のまま、札の勘
いちょうがえ
杏
ゆくろじゅす
女が坐っている。色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀返しに結って、黒繻子の
すあわせくちびる
唇
たてひざさつかんじょう
定をしている。札は十円札らしい。女は長
襟のかかった素睫
を伏せて薄い
袷で、立
まつげ
を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しか
ひざ
も札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。膝の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
ぼうぜん
自分は茫
然としてこの女の顔と十円札を見つめていた。すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」
ちょうばごうし
と云った。ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子の方をふり返って見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
だい
かどぐちや
ふと
こばんおけ
うしろ
後
に
代を払って表へ出ると、門口の左側に、小判なりの桶が五つばかり並べてあって、その中に赤い金
ふいり
魚や、斑入の金魚や、痩せた金魚や、肥った金魚がたくさん入れてあった。そうして金魚売がその
ほおづえ
いた。金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬
おうらい
来の
杖を突いて、じっとしている。騒がしい往
活動にはほとんど心を留めていない。自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。
第九夜
いくさ
まわりあまわ
しん
持がする。それでいて家のうちは森として静かである。
はだかうま
馬が、夜昼とな
世の中が何となくざわつき始めた。今にも戦争が起りそうに見える。焼け出された裸
あしがるどもひしめ
軽
共が
犇
おっ
きながら追かけているような心
く、屋敷の周囲を暴れ廻ると、それを夜昼となく足
家には若い母と三つになる子供がいる。父はどこかへ行った。父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中で
とこ
ぼんぼりひ
雪
わらじはやみ
ずきんかぶいけがき
ひのき
檜
を照らした。
垣の手前にある古い
あった。床の上で草鞋を穿いて、黒い頭巾を被って、勝手口から出て行った。その時母の持っていた
洞の灯が暗い闇に細長く射して、生
父はそれきり帰って来なかった。母は毎日三つになる子供に「御父様は」と聞いている。子供は何とも云わなかった。しばらくしてから「あっち」と答えるようになった。母が「いつ御帰り」と聞いてもやはり「あっち」と答えて笑っていた。その時は母も笑った。そうして「今に御帰り」と云う言葉を何遍となく繰返して教えた。けれども子供は「今に」だけを覚えたのみである。時々は「御父様はどこ」と聞かれて「今に」と答える事もあった。
あたり
しょ
くぐ
しさめざや
鞘の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中
夜になって、四隣が静まると、母は帯を締め直して、鮫
ぞうり
へ背負って、そっと潜りから出て行く。母はいつでも草履を穿いていた。子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまう事もあった。
つちべい
土
くだおつ
たんぼ
こだち
いちょう
杏がある。この銀杏笹ばかりの中を鳥
塀の続いている屋敷町を西へ下って、だらだら坂を降り尽くすと、大きな銀標に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。片側は田圃で、片側は熊
めじるし
を目
くまざさ
居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の木立になる。それから二十間ばかり敷石伝いに突き当ると、古い拝
ねずみいろ
殿の階段の下に出る。鼠ると、その鈴の傍に八
さいせんばこ
銭
ひも
はとかちゅう
きんてき
的を、射
中のものの射抜いた金
色に洗い出された賽箱の上に、大きな鈴の紐がぶら下がって昼間見
そばはちまんぐう
幡
かか
宮と云う額が懸っている。八の字が、鳩が二羽向いあったような書体にで
きているのが面白い。そのほかにもいろいろの額がある。たいていは家
たち
抜いたものの名前に添えたのが多い。たまには太刀を納めたのもある。
くぐこずえ
梢
ふくろう
でいつでも
梟
ひやめしぞうり
が鳴いている。そうして、冷飯草履の音がぴちゃぴち
鳥居を潜ると杉の
かしわで
ゃする。それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏
手を打つ。たいていは
さむらい
この時梟が急に鳴かなくなる。それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。母の考えでは、夫が
侍
であるから、
はちまん
弓矢の神の八めている。
がんきいちず
幡へ、こうやって是非ない願をかけたら、よもや聴かれぬ道理はなかろうと一図に思いつ
さあたり
うまな
はげ
子供はよくこの鈴の音で眼を覚まして、四辺を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。すると旨く泣きやむ事もある。またますます烈しく泣き立てる事もある。いずれにしても母は容易に立たない。
ひととお
一
ず
通り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を摺りおろすように、背中から前へ廻
だす
のぼ
しば
ま
らんかんくく
干に括り
して、両手に抱きながら拝殿を上って行って、「好い子だから、少しの間、待っておいでよ」ときっと自分の頬を子供の頬へ擦りつける。そうして細帯を長くして、子供を縛っておいて、その片端を拝殿の欄
おひゃくど
つける。それから段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり御百度を踏む。
くくくらやみらく
たけしば
あが
は
拝殿に括りつけられた子は、暗闇の中で、細帯の丈のゆるす限り、広縁の上を這い廻っている。そう
云う時は母にとって、はなはだ楽な夜である。けれども縛った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。御百度の足が非常に早くなる。大変息が切れる。仕方のない時は、中途で拝殿へ上って来て、いろいろすかしておいて、また御百度を踏み直す事もある。
も
れていたのである。
よろうし
こう云う風に、幾晩となく母が気を揉んで、夜の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士のために殺さ
かなし
こんな
第十夜
悲
い話を、夢の中で母から聞いた。
さら
けん
健さんが知らせに来た。
つ
庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いていると云って
こうだんしみずがしや
しごく
おうらい
かぶ
来の女の顔を眺めている。そうしてしきりに感心して
庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。ただ一つの道楽がある。パナマの帽子を被って、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、往いる。そのほかにはこれと云うほどの特色もない。
すいみつとう
あまり女が通らない時は、往来を見ないで水菓子を見ている。水菓子にはいろいろある。水
蜜
りんご
桃や、林檎
びわきれいかごきれい
みやげもの
や、枇杷や、バナナを綺麗に籠に盛って、すぐ見舞物に持って行けるように二列に並べてある。庄太郎はこの籠を見ては綺麗だと云っている。商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。
なつみかん
ほ
事がない。ただでは無論食わない。色ばかり賞めている。
ぜに
この色がいいと云って、夏蜜柑などを品評する事もある。けれども、かつて銭を出して水菓子を買った
ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。身分のある人と見えて立派な服装をしている。その着物の色がひど
と
く庄太郎の気に入った。その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。そこで大事なパナマの帽子を脱って
ていねいあいさつ
丁
寧に挨
かごづめ
さ
さ
拶をしたら、女は籠詰の一番大きいのを指して、これを下さいと云うんで、庄太郎はす
ぐその籠を取って渡した。すると女はそれをちょっと提げて見て、大変重い事と云った。
ひまじん
庄太郎は元来閑
きさく
人の上に、すこぶる気作な男だから、ではお宅まで持って参りましょうと云って、女と
いっしょに水菓子屋を出た。それぎり帰って来なかった。
のんきただごと
事じゃ無かろうと云って、親類や友達が騒ぎ出していると、
いかな庄太郎でも、あんまり呑気過ぎる。只
七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。そこで大勢寄ってたかって、庄さんどこへ行っていたんだいと聞くと、
庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。
何でもよほど長い電車に違いない。庄太郎の云うところによると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。
は
てっぺん
の天切
きりぎし
壁
非常に広い原で、どこを見廻しても青い草ばかり生えていた。女といっしょに草の上を歩いて行くと、急に絶
のぞ
辺へ出た。その時女が庄太郎に、ここから飛び込んで御覧なさいと云った。底を覗いて見ると、岸は見えるが底は見えない。庄太郎はまたパナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切っ
きりぎし
ぶたなか
た。けれども命には易えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして
だいきらい
嫌だっ
て飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大
びんろうじゅステッキ
来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳
榔
樹の洋
はなづらぶ
頭を打った。豚はぐうと
杖で、豚の鼻
ひくかえ
す
ひいきつ
云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一と息接いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦りつけに来た。庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。豚はぐうと鳴いてま
まっさかさま
た真
逆遥
ころ
あたり
辺
様に穴の底へ転げ込んだ。するとまた一匹あらわれた。この時庄太郎はふと気がついて、向うを
はるか
見ると、
の青草原の尽きる
むれ
から幾万匹か数え切れぬ豚が、群をなして一直線に、この絶壁の上に
めが
ていねい
くる豚の鼻頭を、一つ一つ丁
しん
さわ
さかこわ
寧に檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触りさえすれば豚
立っている庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄って
のぞ
はころりと谷の底へ落ちて行く。覗いて見ると底の見えない絶壁を、逆さになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖くなった。けれども豚は続々くる。黒
はむじんぞうなのかむばんたた
雲に足が生えて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵に鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日六晩叩いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が
こんにゃく
蒟
な
よ
蒻のように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。 庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。
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